大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

大阪高等裁判所 平成10年(ラ)54号 決定

抗告人

右三名代理人弁護士

吉井正明

主文

一  原審判を取り消す。

二  本件を神戸家庭裁判所に差し戻す。

理由

第一  本件即時抗告の趣旨及び理由

別紙即時抗告申立書(写し)記載のとおり

第二  当裁判所の認定及び判断

1  一件記録によると、次の事実が認められる。

(1)  被相続人は、平成九年四月三〇日死亡し、被告相続人の長女の抗告人甲、四男の抗告人乙、五男の抗告人丙は、同日、被告相続人の死亡の事実とこれにより自己が法律上の相続人となった事実を知った。

(2)  抗告人らは、平成九年八月一日、共同相続人である被相続人の妻A子及び被相続人の長男Bと遺産分割の協議をし、神戸市垂水区舞子台〈以下省略〉在の宅地と建物をAに、神戸市垂水区桃山台〈以下省略〉の宅地と建物をBに取得させる旨の遺産分割の合意をし、その旨の遺産分割協議書を作成し、所有権移転登記手続をした。

(3)  抗告人らは、同年九月二九日、国民金融公庫から呼び出しを受け、被相続人が、Bの経営する株式会社Kの連帯保証人となっており、同公庫に五一〇万円の連帯保証債務を負担していることを知らされ、Bから事情を聞く等して調査した結果、右公庫の債務以外にも、相続債務として株式会社伊予銀行に対し少なくとも約四四〇〇万円を下回らぬ連帯保証債務があることを知り、平成九年一一月一日、本件各相続放棄の申述の申立に及んだ。

(4)  しかし、原審は、抗告人らは、本件遺産分割協議により遺産について処分行為をしたもので、これは法定単純承認事由に該当し、本件申述は法的単純承認後の申立であるから、不適法であるとして、前記各申立を却下した。

2  しかし、原審判の判断は是認し得ない。その理由は次のとおりである。

(1)  民法九一五条一項所定の熟慮期間については、相続人が相続の開始の原因たる事実及びこれにより自己が法律上の相続人となった事実を知った場合であっても、三か月以内に相続放棄をしなかったことが、相続人において、相続債務が存在しないか、あるいは相続放棄の手続をとる必要をみない程度の少額にすぎないものと誤信したためであり、かつそのように信じるにつき相当な理由があるときは、相続債務のほぼ全容を認識したとき、または通常これを認識しうべきときから起算すべきものと解するのが相当である。

(2)  本件においては、抗告人らは、平成九年九月二九日、国民金融公庫から相続債務の請求を受け、Bに事情を確認するまでは、前記認定の多額の相続債務の存在を認識していなかったものと認められ、生前の被相続人と抗告人らの生活状況等によると、抗告人らが右相続債務の存在を認識しなかったことにつき、相当な理由が認められる蓋然性は否定できない。

(3) もっとも、抗告人らは、他の共同相続人との間で本件遺産分割協議をしており、右協議は、抗告人らが相続財産につき相続分を有していることを認識し、これを前提に、相続財産に対して有する相続分を処分したもので、相続財産の処分行為と評価することができ、法定単純承認事由に該当するというべきである。しかし、抗告人らが前記多額の相続債務の存在を認識しておれば、当初から相続放棄の手続を採っていたものと考えられ、抗告人らが相続放棄の手続を採らなかったのは、相続債務の不存在を誤信していたためであり、前記のとおり被相続人と抗告人らの生活状況、Bら他の共同相続人との協議内容の如何によっては、本件遺産分割協議が要素の錯誤により無効となり、ひいては法定単純承認の効果も発生しないと見る余地がある。そして、仮にそのような事実が肯定できるとすれば、本件熟慮期間は、抗告人が被相続人の死亡を知った平成九年四月三〇日ではなく、国民金融公庫の請求を受けた平成九年九月二九日ころから、これを起算するのが相当というべきである。

(4) そうすると、本件申述を受理すべきか否かは、前記相続債務の有無及び金額、右相続債務についての抗告人らの認識、本件遺産分割協議の際の相続人の話合の内容等の諸般の事情につき、更に事実調査を遂げた上で判断すべきところ、このような調査をすることなく、法定単純承認事由があるとして本件申述を却下した原審判には、尽くすべき審理を尽くさなかった違法があるといわなければならない。なお、申述受理の審判は、基本的には公証行為であり、審判手続で申述が却下されると、相続人は訴訟手続で申述が有効であることを主張できないから、その実質的要件について審理判断する際には、これを一応裏付ける程度の資料があれば足りるものと解される。

3  よって、原審判は失当であるから、これを取り消し、前記の点について更に審理を尽くさせるために本件を原裁判所に差し戻すこととして、主文のとおり決定する。

(裁判長裁判官中田耕三 裁判官高僑文仲 裁判官中村也寸志)

別紙即時抗告申立書

抗告の趣旨

神戸家庭裁判所平成九年(家)第二二四八号、第二二四九号、第二二五〇号相続放棄申述事件の平成九年一二月二六日付「申述人らの相続放棄の申述をいずれも却下する」との審判はこれを取り消し、「申述人らの相続放棄の申述を受理する」との裁判を求める。

抗告の理由

一、原審判は、申述人らを含む相続人らが、被相続人所有の不動産を平成九年八月一日付遺産分割協議書により、右不動産を被相続人の母親と長男の共有名義にしていたことについて、これが相続財産の処分にあたるから、処分行為をした当時において申述人らが被相続人の債務を知っていたと否とに関わりなく単純承認したものとみなされ、もはや相続の放棄はできなくなるとして申述人らの相続放棄の申述を却下した。

しかし、被相続人所有の右不動産を母親と長男の共有名義としたのを処分行為をしたのは誤りであり、原審判は取り消されなければならない。

二、民法九二一条の法定単純承認の規定の根拠については、(1)相続人が相続財産を処分したことは単純承認の意思を持ってしたと推定すべきであり、単純承認の効果を認めることは、相続人の通常の意思に合致するものであるというべきもの、(2)相続人が相続財産の処分後に限定承認・相続放棄を認めると、相続債権者、次順位相続人または共同相続人などを害するおそれがあるというもの、(3)相続人の相続財産の処分を信頼した第三者を保護することが必要であるというもの、(4)相続人の処分によって相続財産と相続人の固有財産との混同を生じ、相続財産の範囲が不明確となり、限定承認が事実上困難となるというものなどが挙げられる。これらの理由は本件の場合にはいずれもあたらない。抗告人らが、相続財産を母親と長男名義にしたのは、父親が生前に抗告人らに伝えていたところであり、抗告人らは父親の意思に従い、実質的に相続財産を放棄したものである。右分割協議書作成当時においては、被相続人が長男が経営する株式会社Kの連帯保証人になっていることは全く知らなかったところであり、抗告人らとしては、被相続人の唯一の相続財産である自宅の所有名義を母親と長男名義にすれば、それで相続放棄の目的が達せられるものと考え、遺産分割協議書に署名押印したものである。

要するに、抗告人らは相続放棄の趣旨で、名義を被相続人の妻と長男にしたのであり、抗告人らが不動産の名義人にならなかったことはむしろ放棄の意思が推認されるのであって、単純承認の推定が働かないことになる。また、相続財産の名義人になっていないのであるから、その後放棄したところで、相続債権者を害することにはならないし、第三者の信頼を害することもなく、相続財産と相続人の固有財産との混同の問題も生じる余地はない。被相続人の妻や長男が相続財産を取得し、自己の名義にした後に放棄するというのであれば(1)及至(4)の理由から法定単純承認とみなされるのは理解ができるが、このように実質的に相続を放棄しようとして、相続財産からその名義を除いた者の行為を持って法定単純承認とするのは、本条の趣旨に反するといわなければならない。のみならず、一般的に母親あるいは長男に財産を譲るために、このような分割協議書を作成して実質的に相続を放棄することは世間一般に行なわれているところであり、その後判明した負債のために単純承認したとみなされたのでは、分割協議書に署名し、財産を放棄した相続人の真意に反するのみならず、不測の事態をもたらすことになり、実状に合わない結果をもたらすことになる。負債があることを知らないために、財産を母や長男に譲ろうとした好意が、仇になるばかりでなく、場合によっては自己の固有財産さえもなくしてしまう事態に発展してしまうことになってしまうのである。もし、当初から負債の存在を知っていたなら、もともと相続する意思がないのであるから、当然相続放棄するはずのものであったのが、負債があることを知らなかったために相続放棄の機会さえも奪ってしまうというのはあまりに酷なことであり、当事者の通常の意思に反する。抗告人らは九月二九日に抗告人乙が国民金融公庫に呼び出され、株式会社Kの支払が遅れていること、被相続人が連帯保証人になっていることを知らされ、登記簿謄本を取り寄せたところ、伊予銀行に六六〇〇万円の根抵当権が設定されていることが分かり、長男に問いただしたところ、被相続人が連帯保証人になっていることが分かったものである。もし、当初からこの事実が知らされていたならば、抗告人らは相続放棄を熟慮期間内にしていたはずであり、長男からこのことが知らされていなかったために、九月二九日まで負債の存在を知り得なかったのである。

また、処分とは、財産の現状またはその性質を変ずる行為をいい、処分というためには単純承認とみなされる法律効果を与えるのに相応する程度の処分でなければならず、定式的に判断すべきではないとされている。相続財産の名義を被相続人の妻と長男名義にしたことは、財産の現状またはその性質を変ずる行為にあたらないことは明らかである。名義が変わっても、相続財産そのものはそのまま存在しており、母親と長男名義にしたことにより、財産の性質に変化が生じるということはありえない。相続財産を売却処分したとか改築したとかいうのならともかく、母親と長男名義にしただけで、むしろそうすることによって、相続財産の処分に関わり合えない立場に、自らをおいているのであり、いかなる意味でも処分というのにはあたらないといわなければならない。

三、以上の経過であり、抗告人らは当初から相続を放棄する意思であったのであり、被相続人に借金がないものと思っていたため、実質的な放棄の手続として、被相続人名義の不動産を母親と長男名義にしたものである。ところが、その後に被相続人の保証債務の存在が明らかになったために、相続の放棄を申述したものである。抗告人らは相続財産を母親と長男名義にしただけであり、相続財産そのものは現に存在しているのであるから、相続財産を処分したものとはいえない。相続財産を抗告人ら名義にしたならともかく、放棄する意思で母親と長男名義にしたのであるから、抗告人らの行為は一貫しており、被相続人に保証債務があることが当初から分かっていれば初めから放棄の申述をしていたものである。被相続人の負債が相続当初は明らかでなかったため、明らかになった時点で、放棄の申述申立をしたものであり、受理されるべきものである。

よって、原審判は取り消されなければならない。

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例